祈る ということ

祈る、という言葉は軽い気持ちで使うことはあるが、
真剣な気持ちでそう宣言したことってないと思う。

祈るには、願いを叶えて欲しいという気持ちがベースにあるが、
『困った時の神頼み』というように、その願いがすぐに結論が出るようなものの時に、
お祈りすることが多い。

ところが、先日読んだ本では、祈るというのがただひたすら願う、祈るおはすごく難しいことだという。おそらく雑念が入って、3分もできないだろうと。
たしかに、願っているという状態は、あの人がこんなことを言っていたし、あんなことが起きると、こうだろうな?とか、いろいろな考えや思いが浮沈する。
それは軽いシミュレーションのようなものと言ってもいいかもしれないし、ただ気を紛らわしていて、なんの解決にもならないかもしれない。
しかし、ペンを持って紙に書き出すと、ちょっと違う。
本当の整理やシミュレーションにつながって、なんらかの居直りに近い、結論に届くことがある。
以前、訳のわからないクレーム処理に当たった時など、『ああこういうことは、お門違いから無視しよう。これは共感できるけど、自分にはどうしようもないので、それは伝えよう。それにkンなに長い時間話していても同じことなので、どこかで区切ることを提案しよう』というように整理できて、すごく気分が軽くなったことがある。

祈るってどういうことだろう。
その解決の仕方とか、生涯になることなどを排して、ひたすらその問題が1日もはやく解決することを願う。その一点なのかもしれない。
そうすれば、その集中力の強さが、時空を超えてその問題に到達して解決の穴を開けるのかもしれない。
祈る、ということ何は何以下、宗教とか呪術のような奥深く暗い響きがある。
日常的ではない。
だから、シミュレーションや心配することや、課題の整理といったことに置き換えられない何かなのだろう。
そういうことがあるのだと知っておいてもいいかもしれない。
いざ何もできなくなった時に。