自分の意識変革は、周りの変化に遅れていないか

 SNSでマイストーリーや数年前の出来事などが出てくると、

思わずその頃のことを思い出してしまう。一瞬なのか、数分なのか、そう長い時間ではないが、感慨にふけると言うのだろうか、とにかく昔のことに思いを引きもどす。

 もちろん、昔は良かったなとは思っても戻りたいとも戻れるとも思ったことはない。むしろ最近は先のことばかり、考えている。

 それは未来に続く自分史、というテーマに取り組んでいるからだろう。昔のことを振り返るのは貴重な体験ではあるが、それだけなら自分史で足りる。しかもそれは高齢の方が中心で、振り返ることで作業が終わる。そうした行為にはあまり興味がない。意味はあるが、そこで終わらせてしまい、満足しているのが嫌なのだ。

昔を振り返り、だからこれからの自分の考え方や行動をこう変えていく、という想像やシミューレーションにこそ力を注ぐべきだと思うし、昔を振り返る意味があると思う。昔を思い出すことは、まず現在とその頃のギャップを、きちんと意識しておく必要が有る。自分の全てや、周囲の全てが変化している。変わらないのは自分の思いだが、他者とのそれが変わっていないわけはないので、確認する必要が出てくる。どんない等しい友人でも、その関係が変わり変質しているはずだ。

 そう人間は社会の中に存在している以上、その存在意義は、周囲との人や組織の関係で成り立っていることがほとんどで、それゆえに自分だけの存在領域が確保されているような気がする。

 周囲との差異、独自のアイデアや想像、は周囲との関係があるからこそ意識できるものだ。

 人はおおよそ、家庭と会社という組織に属していて、あまりそのポジションや力関係が変わることはない。会社との関係は異動や昇進によって、その関係は変わる頻度が高い。それは経営からの期待の変化も伴うし、役割の変化も伴うので、それは意識しやすい。しかもそれらのレベルに適応対応できないと、しっかり評価に現れ、給与や降格といった形でFBされるので、解りやすい。

 ただ、それらの厳しいと思われる環境の変化も、その企業内の変化という点では、限られた社会だ。その企業の事業内容や、計画に合致するかという、限られたパラダイムの中の変化でしかない。

 リストラなどにより、まったく環境がことなる企業に身を置くとそれはわかりやすいが、そうなってしまえば、それに対応するしかいない。そして、しばらくの間は新たな経験をするたびに、いろいろな考え方ややり方に驚き、反発しながら、一方で、今までの限定されたパラダイムの中での自分の言動を許していた世界の寛容さや特殊さを知る。

 そして思うのだ。今までの自分の関心領域の狭さや浅さを。

それが悪いのではない。しかし、同じところに長年いるとそうすることが正しいし、そうなってしまうものなのだ。

 だから自分のいる場所を意識的に変化させていくか、あるいは周囲の人の動きや技術の変化に関心を持っている必要が出てくるのだ。それも新しい情報や考え方を理解するには、いままでのやり方情報源も変えるし、入手方法も(例えばアナログからデジタルへ)変えるのだ。

それによって感じかたもその処理の仕方も変わる。

 

以下に積極的に情報収集をしていてお、同じやり方をしていたら、それはわずかな差しか変ええない。

 

欲望は尽きることがない?

『善と悪の経済学』をまだ読んでいる。
昨晩から今朝にかけて読んだところは、
欲望は尽きない、という箇所。
それが経済の発展に繋がったが、しかし個人は決して裕福にも、
おそらく幸福にはなっていないということ。

人間は、そもそも新しいこと、ものなどを知った瞬間に、
それを欲したり、試してみたくなるものらしい。
その好奇心がなければ、サピエンスとして進化はしてこなかった。
その好奇心という欲望は、競争を生み、他の生物の種を必要に応じて、
あるいは好奇心の赴くままに、絶滅させてきた。
これが歴史的な事実だ。

歴史的には、そうした人間はいつまでも決して幸福にはなれない。
だから何も持たないことができれば、欲求を抑え、その場での幸福を持つことができると考えたひともいた。
しかし、それは結果的に不可能だった。
したがって、人間の欲求は未だに収まることなく、再生産され、拡大している。
これだけ科学が進んでも、労働時間は減少せず、ローンもなくならず、
ワークライフバランスの均衡を問題にしなければならない状態だ。

この欲求をコントロールするのはもう無理で、
それを追求できないような法律、ルールをがんじがらめに作るのはどうなんだろう。
過労で自殺する若い女性の話題が、働き改革に繋がっている。
その法律が、完璧であるわけはないだろう。
見方によっては残業手当なき長期労働を強いる面もある。
しかし、それが本当に嫌であれば、そうした会社、仕事、待遇を拒否することはできる。
そもそも就職は、企業と個人の双方の労働契約だから、就業規則では一般的に一カ月の猶予を確保すれば破棄が可能だ。

しかし、退職に至るまでは追い詰められていないために、それに思いが至らない可能性もある。
だから、労働時間だけでなく、リカレントの時間、社会活動の時間を確保せよ。
国から補助を出すが、自己負担ももちろんある。
でもやらなくてはいけない、といったルールができたら、欲望は拡大しつつも、
今、それを目指すことができない。
しかし、結果的に個人の能力や知識は拡大し、
より良いパフォーマンスを上げることが可能になっていく。
そして最低限、あるいは必須の欲求だけは徐々に実現することができていく。
そうした世界が、必然なのではないか?

そこに必要なのは、公平な機会の提供だ。
全てはそれだ。

仕事選びの考え方

自分の視点、自分の欲望で仕事は選ぶ

給料がいいい、この業界や企業は伸びそう、
歴史があるので安定していそう、

どうせ同じ仕事なら、その方がいい。
しかしそれを優先して考えると、
そこで働いても楽しくない。
仕事や同僚のスピードに追いついていけない。
安定はしているけど、結局ここにいる自分ってなに?
という感じになりかねない。

スキルや資格は、自分が楽しい、継続してやっていけるだけの興味がある、といったことがないと、中途半端になるし、資格だってペーパードライバーだったら、価値が全くなくなるしそのために努力した時間やお金だって無駄になるかもしれない。

資格や給料の高さって、考えてみると多少の長短はあっても、短い期間の喜び、ちょっと得な話にすぎないということがわかる。
地位だって同じようなことが言える。
課長に昇進した、うれしい。
そう思えるのは数年だろう。
早い人間は、他の成長可能性の高い部門で活躍しているが、
自分は、地味でもうすぐなくなるような部署、ということになれば、
とっちも楽しくないし、やる気も失せる。
そのうち同僚が次長に昇進すると、さらに落ち込む。
そのことの繰り返しかもしれない。

もちろんそんなことは全く気にしない。
自分は自分さ、と思えるならそれこそが自分らしさだが。

ピーターの法則というのは、組織の観点から見た個人の能力の成長可能性だと思う。
能力が発揮されているうちは、昇進するが、その能力が無能力化した時に、
そのポストで止まる、という法則だ。

この昇進を自分の興味というように言い換えたらどうだろう。
興味っていつまでも同じであることもあるし、
途中でどんどん変形していくこともある、
それでも自分で興味を持ち続けることをやっていれば、
ポストの代わりに楽しさややりがいは尽きることはない。

だから、最低限売っていけるだけの条件が揃えば、
自分本位で、本当に興味が持てることに取り組んでいった方が
人生は楽しいし、充実感を味わえるのではないだろうか?

そんなことをしていて、歳をとった時の生活はどうなる?
それは自分で責任をとるしかない。

しかしこれだけは言える、歳をとった時の性格の安定のために、
いまの時間や過ごし方を犠牲しにするという計算は成り立たない。

わかるよね。
充実した人が年をとっても、充実しているので、心配することがない。
充実した生活を送った人と後々の安定した生活のために、たのしくもないしごとをしてきたひとの生活は、そもそも、同じ選択肢を持つことはない。

そのはずだ。

祈る ということ

祈る、という言葉は軽い気持ちで使うことはあるが、
真剣な気持ちでそう宣言したことってないと思う。

祈るには、願いを叶えて欲しいという気持ちがベースにあるが、
『困った時の神頼み』というように、その願いがすぐに結論が出るようなものの時に、
お祈りすることが多い。

ところが、先日読んだ本では、祈るというのがただひたすら願う、祈るおはすごく難しいことだという。おそらく雑念が入って、3分もできないだろうと。
たしかに、願っているという状態は、あの人がこんなことを言っていたし、あんなことが起きると、こうだろうな?とか、いろいろな考えや思いが浮沈する。
それは軽いシミュレーションのようなものと言ってもいいかもしれないし、ただ気を紛らわしていて、なんの解決にもならないかもしれない。
しかし、ペンを持って紙に書き出すと、ちょっと違う。
本当の整理やシミュレーションにつながって、なんらかの居直りに近い、結論に届くことがある。
以前、訳のわからないクレーム処理に当たった時など、『ああこういうことは、お門違いから無視しよう。これは共感できるけど、自分にはどうしようもないので、それは伝えよう。それにkンなに長い時間話していても同じことなので、どこかで区切ることを提案しよう』というように整理できて、すごく気分が軽くなったことがある。

祈るってどういうことだろう。
その解決の仕方とか、生涯になることなどを排して、ひたすらその問題が1日もはやく解決することを願う。その一点なのかもしれない。
そうすれば、その集中力の強さが、時空を超えてその問題に到達して解決の穴を開けるのかもしれない。
祈る、ということ何は何以下、宗教とか呪術のような奥深く暗い響きがある。
日常的ではない。
だから、シミュレーションや心配することや、課題の整理といったことに置き換えられない何かなのだろう。
そういうことがあるのだと知っておいてもいいかもしれない。
いざ何もできなくなった時に。

自分探しの、自分って

最近でこそ、自分探しということばはあまり見かけなくなった。

流行語のように、自分探しの旅行に行く。
自分が探せなくなった仕事を辞める。
方針が定まらない、一つに集中できない。
そんなことを自分探しと言っていたのかもしれない。

確か養老孟さんだと思うが、
自分探しといっているひとは、当の自分というものは変わらないと思っているんじゃないか、という指摘をしていたが、いわれてみればなるほどですよね。

自分というものがあるなら、それは探せる。
でも自分がわからないのに、その自分を探すことはできない。
仮にいまこの時の自分がはっきり見えていたにしても、
それを探しているときに、自分は変わらないままでいると言えるだろうか。
全く変わらない自分、
変わらずに残る自分と、変わっていく自分。
その合計である自分は、やはり変わっている。
時間が経過するだけで、細胞は何千何万と入れ替わっていくし、
目の前の風景も、体を包む温度も風も変わっている。
それが生物である自分の生き方だから、変わりゆく自分を探すということは、
自分が考える自分の方向にむけて、自分を変える経験を作り出すことじゃないか。

理屈っぽいが、そう考えると、それをいつも考えながら、なるべく多くの行をし、経験したほうが得のような気がする。得?って言っても、それは誰が何を得した、というよりは、生きる喜びっていうものを、多く味わえるというくらいの得ってことだけどね。

だから、自分が変わっていることを自覚しないと、あっとう間に過ぎ去っていく過去の自分を探すってことにもなりかねない。それって単なるいい思い出だったり、もう戻れない、終わったものを探すということ。
それを続けるって、寂しいね。

ひとはよく死ぬために生まれ、生きていると言われる。
確かに死ぬのだから、始点と終点の時間の流れをいうとそうなる。
しかし、生きているってことは、その始まりと終点ではなくて、その過程だ。
それも一直線ではなく、山あり谷あり、逆戻りや立ち止まることはないにしても、意識面では太かったり細かったりするということはあるはずだ。
その一瞬一瞬は、意識を高揚させたり落胆させたりする。だから、一点だけを取り上げて眺めてみても、人生って意味がない。最近そう思うようになった。

生きているってこそは連続の中にあって、山谷があって、嬉しいことも悲しいことも、成功も失敗もある。
当然楽しい経験を多く長くして生きていきたい。
でもオール100点というのはない。
そういうものだと考えたら、まはちょっと我慢しておいて次の楽しい体験の準備をしようと考えるほうが、健全だ。

自分探しって、だから腰を据えて、楽しいことを探したり作ったり準備することって考えたほうがいい。

形こそ、感情のもと

悲しいから泣くのではなく、泣くから悲しいのだ。
アドラーはこう言っている。
そう形をしっかりとれば、そのようになる、できるのだ。

内田樹さんも言っているように、母親のように日々の仕事、料理や洗濯ということだけど、をしていると、母親のような気持ちになってくるのだそうだ。

実は僕も家族が怪我をしたり不在だったりした時に、
洗濯(といっても洗濯機に放り込んで干すだけだが)や料理(野菜を切って煮詰めるだけのスープ岳、毎日飲んだ)をし、洗い物をしていると、そうした主婦、家族のために家事に勤しむ主婦のような気分になったものだ。

剣道で言えば残身をしっかりとれるように打ち込め、とよく言われた。
オートバイのコーナリングでも、コーナーを綺麗に回り終えた姿をイメージできると、コーナリングも問題なくスムーズに行くと言われている。

そのように考えると、プロジェクトも恋愛でさえも、うまくいった状態をイメージできれば、いいアプローチができるかもしれないと考えるだろう。
でもそうはうまくいかない。そこに相手の気持ちというものがあるからだ。

しかし、無駄ではないだろう。
まず、プレゼンがうまくいったイメージを持って準備をし、実行すれば、効果的だろうし、自信を持って仕事を進めれば、周囲も安心しててっつだてくれるかの可能性も高まる。
だから、今目の前の問題も、それがうまくいった後のイメージを作るのは重要なことになる。誰も成功させるためにやっているのだから、成功した状態をはっきりさせなければ、行動自体が曖昧になる。

形から入るというのは、成功の癩であり、それにつながる流れの形である。

その欲望は他者の欲望が伝染したにすぎない

知人で、よく海外に行く人がいる。
悠々自適の生活を送れる条件を備えた人だから、それも可能なのだろう。

自分などはいつもハワイに行きたいと思っている人間にとっては、
羨ましい限りだ。
酒席でもそのような会話が飛び交う。

しかし、それは本当ではないだろう。
僕にしてみれば、寒いのは不得手なので、暖かいところ。
そして海が近い清潔な街であればいい。
最近は台湾が気になっている。
台北は3度くらい行ったので、もういい。
次は台中を密かに狙っている。
数週間前だろうか、女性雑誌で台湾特集を組んでいたが、
その中で台中の緑濃い街並みやカフェ、大学、図書館の写真が掲載されていた。
台北から新幹線で1時間くらいだという。

それなら週末を利用して一日か二日の休暇を取れば十分だろう。

もちろん、行ったことのない国には魅力を感じる。
村上春樹の小説に出てきた北欧も、
開高健が酔いどれたパリやドイツも。

しかし、いざ時間もお金もあったとしても
おそらくハワイを選ぶだろう。

僕の本当の欲望はそういうところにあって、
滅多にいけそうもない、遠いところへいくのではなく、
できるだけ長く腰を落ち着けて、飽き飽きするまで、
無駄な時間を持て余すような、時間を欲しているのだろうと思う。

そして仮に、そういうところへ行ったとしても、
その印象や行動も、空気の吸い方も、他の人とは違うやり方をするのだろうと思う。
なぜなら僕の欲望は違うところにあるのだから。

うらやましいとか、じゃあ今度は僕も行ってみよう、とは
本当のところは思わない。
ただ好き勝手なことをやっていることはうらやましいのだけれども。