自分探しの、自分って

最近でこそ、自分探しということばはあまり見かけなくなった。

流行語のように、自分探しの旅行に行く。
自分が探せなくなった仕事を辞める。
方針が定まらない、一つに集中できない。
そんなことを自分探しと言っていたのかもしれない。

確か養老孟さんだと思うが、
自分探しといっているひとは、当の自分というものは変わらないと思っているんじゃないか、という指摘をしていたが、いわれてみればなるほどですよね。

自分というものがあるなら、それは探せる。
でも自分がわからないのに、その自分を探すことはできない。
仮にいまこの時の自分がはっきり見えていたにしても、
それを探しているときに、自分は変わらないままでいると言えるだろうか。
全く変わらない自分、
変わらずに残る自分と、変わっていく自分。
その合計である自分は、やはり変わっている。
時間が経過するだけで、細胞は何千何万と入れ替わっていくし、
目の前の風景も、体を包む温度も風も変わっている。
それが生物である自分の生き方だから、変わりゆく自分を探すということは、
自分が考える自分の方向にむけて、自分を変える経験を作り出すことじゃないか。

理屈っぽいが、そう考えると、それをいつも考えながら、なるべく多くの行をし、経験したほうが得のような気がする。得?って言っても、それは誰が何を得した、というよりは、生きる喜びっていうものを、多く味わえるというくらいの得ってことだけどね。

だから、自分が変わっていることを自覚しないと、あっとう間に過ぎ去っていく過去の自分を探すってことにもなりかねない。それって単なるいい思い出だったり、もう戻れない、終わったものを探すということ。
それを続けるって、寂しいね。

ひとはよく死ぬために生まれ、生きていると言われる。
確かに死ぬのだから、始点と終点の時間の流れをいうとそうなる。
しかし、生きているってことは、その始まりと終点ではなくて、その過程だ。
それも一直線ではなく、山あり谷あり、逆戻りや立ち止まることはないにしても、意識面では太かったり細かったりするということはあるはずだ。
その一瞬一瞬は、意識を高揚させたり落胆させたりする。だから、一点だけを取り上げて眺めてみても、人生って意味がない。最近そう思うようになった。

生きているってこそは連続の中にあって、山谷があって、嬉しいことも悲しいことも、成功も失敗もある。
当然楽しい経験を多く長くして生きていきたい。
でもオール100点というのはない。
そういうものだと考えたら、まはちょっと我慢しておいて次の楽しい体験の準備をしようと考えるほうが、健全だ。

自分探しって、だから腰を据えて、楽しいことを探したり作ったり準備することって考えたほうがいい。