コミュニケーションは後からつくられる

コミュニケーションをとる、という言い方をする。
情報を発信する、働きかけをする側から言うとそういう言い方になるのだろうが、コミュニケーションはそのメッセージが届いて、理解されたところで成り立つとか言われる。

たしかに一方的にメッセージを発したり行動をしたからといって、相手に伝わらない、気がつかれない場合は、単なる情報発信にすぎない。
政府の方針に納得ができない、そこは間違っている、といった意見を持っている人は多いが、それが届かなければ、あるいは注意深く検討されなければ、それはただ、意見をいったに過ぎない。

しかし、最近本を読んでいて、面白いことが書いてあった。
コミュニケーションは、あるメッセージを聞いた相手の反応のメッセージで、そのコミュニケーションの方向が決まる、というものだ。

ある夫婦が、日曜日にハイキングに行く予定だったとする。
その朝、食事の後にお茶を飲んでいるときに、主人が『雨が降ってきたな』とポツリと言った。
それを聞いた奥さんが、『じゃあ、映画にしましょうか』と反応すると、映画に出かける方向で話がまとまっていくというものだ。
ご主人の方は、単にあめがポツンと落ちてきた空模様をいったにすぎないのだが、奥さんの方は『雨が降ってきたら、いくのが面倒になったのだろう』と感じて、ハイキングに出かけて行くより、簡単な映画に置き変えて反応したのだ。
ここにはご主人の性格や、気持ちを推測した反応がある。
これを聞いた、ご主人は、何の気なしに雨が降ってきたことを伝えたにもかかわらず、奥さんが映画に行こうと言い出したので、『雨の日にハイキングは嫌なのだな』と感じ、それに応じて、『そうだな、ハイキングは今度にして、今日は映画にしよう。何をやっているかな』といった具合に、会話が進んでいく。

当初の思いと異なる方向でコミュニケーションが進んでいくが、ここには相手の気持ちを尊重するつながりがあるゆえの、言葉にはならなくても通じ合うコミュニケーションが繋がっているということになる。
これがもっとドライな関係だったり、ビジネス的なものであったりすると、『いやこのくらいの雨なら、大したことはないだろう。傘を持っていけば大丈夫だ』というようにもなって行くはずだ。

だからコミュニケーションは、交わりをとして様々な発展をしていくところに面白さや怖さがある。
面接のときには、目的がはっきりしている。双方とも言いたいこと、聞きたいことがはっきりし、それを準備し、限られた時間で相手に伝え、答えようとするから、比較的、シンプルだ。
しかし、カウンセラーとの面談のときは意外に複雑で、注意する必要がある。
相互にまだ信頼感もなく、積極的な交わりがない場合には、どこに結論を持って行きたいのかをしっかりともて、かつやりとりは正確に理解されたかどうかを確認していく必要がある。そうでないと打ち合わせの目的や、コンセンサスが取れないまま、目標が決まり行動が決まっていってしまうからだ。
現実が厳しいのはわかるがそんな仕事はしたくない、というのが人間の気持ちで、約款的な常識は特に中高年の場合には、『それはそうなのかもしれないが、自分は違う』といった思いの芯があるから、個別性が高い。

ゆえに、慎重に確認を重ね、一歩ずつ進まなければならない。
確認をするということは、完全にそうは思わないが、そうなのだろうな、という微妙な点で決断するということでもある。
口ではわかっていても行動が伴わない。これもコミュニケションの難しさである。