周囲の“雑音”を聞き分ける

周囲の声に動じず、わが道を行く。


意志の強さを表現したものだが、
これは、はた迷惑な頑固、すなわちわがままになったり、
逆に、それがいい成果に結びつくと最終的に高い評価になったりする。


子供の場合は稚気のあるわがままだが、
大人の場合は文字通り、自分勝手、自己チュー、
これが高齢者になると“老害”となる。


この違いはなにかというと、ひとつには、“気づき”があるかどうかだと思う。
“気づき”があると、それまでの判断や行動が、適正な方向に進路を変えることができるようになる。


年をとって、経験をつんでいくと、その成功体験やらなにやらで、
自分の判断基準が徐々に確立され、異なる意見や情報をはねつけるようになる。
それが強くなりすぎると、すべてを大きく跳ね飛ばすようになる。
そうなると、その壁には情報を投げつけなくなる。
新たな刺激がなくなると、
その壁を構成する筋肉のようなものが劣化してくる。
よく若いころの体力の記憶が残っているがゆえに
中高年になった自分の体力を過信(誤解)し、
思わぬ事故につながったりする話を聞く。
これも軽ければ、それ以後、自分の限界を理解して、ほどほどの行動するようになる。


しかし意思の面では異なる。
こちらは情報がなくなり、だれも意見を言わなくなると、
自分から刺激を求めない限り、どんどん陳腐化してくるが、
それが自分の気づかぬうちに加速されていくところに悲劇と害と喜劇がある。


高齢化社会における、中高年の行動や考え方は、
こうした固定化があることを知り、
中高年なりの柔軟性を保ち、日々、“気づき”によって、
行動を修正していくことにある。


若いころの体験は、絶対ではないが、まずほとんど再現することはできないし、ありえない。
自分も社会も文化も変わっているのだから当然だ。


こうしたことはわかりきっていることだが、
なかなかわが身にひきつけて考え、修正することに結びつかない。


そういえば、若いころに受けた自己開発研修などは、
中高年になると受けるチャンスがない。
本来、考え方が固まりかけた中高年にこそ、必要なのではないかと感じるこのごろだ。


⇒柔軟性を持ちつづける、“アンチ・エイジング”は心にこそ必要だ
http://www.goodcareer.jp