日本人の信仰:京都を旅して

5.6年ぶりに京都に行ってきた。
純粋な旅行目的では、10年以上経過している。
学生時代は毎年訪れ、ちょっとした京都通のような自負があったのだが
何のことはない、結局、日々の時間に追われて、趣味に割く時間がなくなり
ささやかな自負も風化していく。
スポーツ、体力と似ている。
気分はそうでも、実際はどんどん薄れているのだ。


今回の旅行は、夜行バスで往復、ビジネスホテルをネットで予約して
相当安あがりですんだ。
期間は正味三日間あるから、時間は豊富だ。
修学旅行を入れても、京都でこれだけの時間があるのは初めてだろうと気づいた。


一回も行ったことがないところを中心に予定した。
そのいくつかは達成したが、時間の無駄も多かった。
収穫は永観堂
ここの建造物も庭も手入れが行き届き、実に気持ちがよかった。
午前中であり、崖に沿って相が重なり、高度もあったので、
空気もシンとしてすがすがしいものだった。


さて、京都には朝の5時半に着いたが、
じっとしていてもしょうがないという貧乏性から、
早速、東寺に向かった。
歩いて20分くらいだろうか。


いつも遠くから五重塔を眺めているだけだったので、
駅からこんなに近いのに、一度も訪れたことがなく、気になっていた。


6時少し前に境内に入ったが、御影堂に入る門の前には
もう10人以上のお年寄りが並んでいる。
白装束の巡礼さんの姿も数人混じっているが
ほとんどは近所のお年寄りだ。
やわらかい言葉で朝の挨拶が心地よく、耳に響く。


6時に鐘が鳴ると、いっせいに境内に入りお堂に入っていく。
坊さんのお経が始まると
お経本をまえに大きな声で唱えている男性もいれば、
静かに唱えている人もいる。
手を合わせて、そそくさと席をたって戻っていく人もいる。
それぞれのお参りの仕方がある。


御影堂の裏手にはいくつかのお像が並んでいるが、
そこでもお参りをしている人もいる。
いずれもサンダル履きの近所の人のようだ。


このような早朝の風景は
実は、下町の浅草でも見ることが出来る。
境内はオープンなので、門の前で待ち構えているようなことはないが、
6時前にはお堂の(これは巨大な建物だが)階段を上がって、
お堂の扉が開くのを待っているお年よりは
15、6人はいる。


ジャラランジャラランという音とともに扉が開くと
いっせいに賽銭箱の前で拝む人も、
中に入って座り込んでお経を上げる人もいる。
これも近所の人だ。
老人会の制服なのか、白い帽子をかぶっているので
一目瞭然だ。


朝、ウォーキングをするときには必ず見かける風景が
京都でも同じように見られる。
京都で早朝にお寺にいたことはないので、はじめて見たた風景だが、
東西で同じようなお参りが行われていることに気づき、
日本人の信仰というものも、実は『ある』のだということに思い当たった。
当たり前のはなしだし、罰当たりなはなしだが、
東西の二つの街で、それを目にしたことが、意外な感じもした。


話が飛ぶが、
三日目の最後の日は醍醐寺に行き、
気軽に上醍醐にまで足を伸ばした。
これは観光気分の拝観という生易しいものではなく、
まさしく登山だった。
確かにガイドブックには往復で3時間程度はかかると書いてあったが、
これはかなりの危険を伴う山道だ。


それでも昔山登りに凝ったことがあるので、昔の体力のつもりで上り始めたのだが
すぐに後悔した。
上り口で、杖を貸し出しているのを見て、
お年寄りが多いのだな、くらいに思っていたが、
実際は、こちらももう高齢者に足を突っ込んでいるのだ。
これもあとで気がついたのだから、過信という錯覚は怖い。


10分も歩くと汗が噴出し、文字通り滝のように流れ出す。
山道は濡れ、岩が出ているから油断すると滑って転ぶ。
こちらはここ数年、腰の調子がおかしい上に
一日目、二日目と無茶をして、歩きどおしだったので、
腰に爆弾をしょっているようなものだ。


一つ前に拝観した隋心院・小野駅で買ったペットボトルが頼みだが、
ジーンズは汗でこわばり、重くなり、足にまとわりつく。
ただでさえ、足が上がらないのに、ますます苦しくなる。


半分くらいしか判読できないのだが、
『○○八丁』と書いてある石の道標をみて、
胸突き八丁というくらいだから、
あと一息だな、などとすがる思いで上っていたが、
最終的には十八丁くらいまで表示が続いた。
これも勘違いだ。


優に1時間以上かけて、やっと頂上にたどりついたという次第。


これは、自業自得のようなものなので、どうでもいいはなしなのだが、
上っている途中ですれ違うのは
ほとんどがお年より夫婦。
こんなお年寄りが登っていい山ではない。


そしてすれ違うときには、『こんにちわ』という挨拶が交わされる。
こちらは昔山登りの経験があるので、自然に挨拶をしていたが、
こうしたところで、自分よりはるかに上のお年寄りと挨拶を交わしていると
不思議な気がする。


山岳信仰で山に登るときも、こうした挨拶が交わされていたのだろうか。
とにかく、お年寄りが、素朴な杖をつきながら、険しい山道を静かに登っていく。
お世辞にも景色がいい山ではない。
うっそうとした中を、黙々と登っていく道だ。
尾根に出ると、わずかに下の景色が見えるが、同時にさらに上にお堂の屋根が見える。
まだのぼりが続く。


頂上にはいくつかのお堂が並んでいる。
国宝もある。
しかし、どちらかといえば殺風景だ。
かなりの高さだが、すばらしい景色というわけではない。


山登りは、登っている時にいろいろな声を聞く。
自問自答のように自分の頭の中で、いろいろな会話が続く。
時にはそれがうるさいほどに、聞こえることもある。
散歩ではない。
えっちらおっちら、苦しい思いをして上っているときも、
それらの会話は疲れることも、途切れることもない。


『なるほど』と思った。
信仰心から、お参りをするために、
このように苦しい思いをして厳しい山道を登るということは、
何らかの煩悩というか、それぞれの悩みがあり、
それと真正面に向かい合うことなのではないか。


これはスポーツ登山でも、同じような『会話』が交わされているのではないか。


体中から、驚くほど汗を噴出させて、
水を体に送り込んで、顔を洗おうと下山して鏡を見たら
湯上りのような、実にさっぱりした顔をしていたので驚いた。
別に何かがふっきれた、というのではなく、単に思い切り汗をかいたので
すっきりしただけだ。

しかし、朝の挨拶、やわらかい言葉、山道で見かけた老夫婦、こんにちわと交わす挨拶、
30年ぶりくらいに登った山と思い切りかいた汗、そして自分と交わした会話。
一つ一つを印象深く思っていたいまは、
それらが、汗を流させ、ついでに煩悩とか、錯覚とかをも
流してしまったような気もしてくる。


信仰というのとは違うかもしれないが
それに近いような何かを感じた。


信じるに足りるものは、必ず自分に安心感をもたらしてくれると思う
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