趣味で活きていくことは、精神的に可能なのか?

中高年の男性で、
いままで30年以上勤めていた金融会社を早期退職。
その割増退職金と貯金とで、それ以降の生活を賄っていこうというひとがいる。


日々の生活費や年金の支給額などを仔細に計算して
おそらく今後あるに違いない想定外の出来事を読み込んでも
まず大丈夫という計算ができたらしい。

それで何をするか?
『いままで時間がないために我慢してきたことを、
思う存分やってみたい』のだという。


その男性は57歳。
絵を描くことが大好きで、油彩、水彩、鉛筆を使いこなして
ある程度のレベルの腕前ではある。
とはいえ、プロには程遠い事はわかっているので、
プロになろうとは思っていない。
親しい間柄の人の結婚式や誕生日などに
プレゼントをして喜んでもらえれば十分だと思っている。
だから、小さな作品が中心になる。
良かれと思って贈っても、気に入らない場合もあるし
邪魔になってしまうのも申し訳ない。
だから、絵葉書くらいの大きさのものに限定している。

同じような慎ましやかな趣味は一人旅だ。
これは、2.3ヶ月に一度、
なるべく静かなところを歩く。名所名跡もあれば自然の風景を楽しむこともあるし
美術館や博物館を目当てに出かけることもある。
自分では食いしん坊だとはいっているが、
旅先でおいしいものを食べたり飲んだりすることには
あまり頓着しない。
質素なのだ。一人の時間を自由に使える贅沢を楽しめば
それ以上のものは余分だと考えている。
満腹では、感性も鈍くなるし、動くのもおっくうになる。
それでは気ままに歩く旅が台無しになるくらいに思っている。


そしてもうひとつ。
ふだんの趣味は読書だ。
小説、短編を好み、ビジネス書は読まない。
すぐに陳腐化するものが嫌いなのだ。
作家は選ばない。その時々に話題になっていたり
興味深いテーマを取り上げている本を、自由に選んでいる。


この男性の個人的な時間の行動は、だいたいこの三つに集約される。
『たった三つ』ともいえるし、『三つもある』ともいえるが、
この男性の場合は、凝り性な性格だからか、三つも持っているといったほうがふさわしい。


とにかく、それ以外の余分な時間があまりないのだ。
仕事についていた時は、会社への行き帰り、取引先への移動、
帰宅後の時間。風呂に浸かっているときも、トイレに座っているときも
本を読んでいるか、スケッチをしているかどちらかなのだ。


休みの日はまず目的地だけを決めて、朝早く出かける。
洗濯や掃除は、週末の晩に片付けるようにしているので、
時間は十分にある。
そう、かれは独身で一人住まいだから
会社を離れると、口を利くことがほとんどない。
仕事は、商談やプレゼンや会議で、それこそ声がかれるくらいの日が
週に二日はあるので、仕事から離れたら、もう口をひらくのも億劫なのだ。
だから、こうした生活を自然なものだと思っている。
コンビニやスーパーで買い物をしても
声を出す必要がまったくないのだから、それは自然だ。


早期退職後の生活の大きな違いは
まったく人と話すことがなくなったことだ。
そう、朝から晩まで。今日も明日も、それ以降も、
おそらくほとんど口を利かなくてすむようになった。


かれはそれを苦痛とは思っていない。


ただ、それが3ヶ月ほどたったときに、自分で気が付いたことがある。
朝食のゆで卵、レタス&ドレッシング、バターとマーマレードのトーストをとりおわり、
二杯目のコーヒーを飲みながら、新聞を読んでいた時、
独りごとをつぶやいていることに気がついたのだ。


決して小さなつぶやきではない。
相手が目の前にいて話をしているような感じで
話をしているような声で、
話をしているのだ。



もちろんその部屋には誰もいない。


『独り言をいう自分に気がついたら、ストレスがたまっていると思った方がいい』
同僚にそういわれたことがあるのを思い出した。
その男性は、うつ病にかかり、長期療養に入ったことがある。
療養といっても入院はしたのだから、治療といったほうがあたっている。
ほとんど回復したという知らせが来たので、
入院後半年くらい経過してから、初めて見舞いに行った。
そのときに、その男性が言ったせりふだ。