責任の取り方、そのタイミング

今日の号外には驚いた。
安倍首相の退陣宣言である。

まだ詳細は分からないが、原因やその是非はこれから週刊誌などでしばらくの間、話題になるだろう。
※9/15の日刊紙の見出しには『自○未遂』の文字まであった。
それだけではなく、次期総裁選挙の予想や、その後の民主党とのやり取りと関連して
この判断の是非や影響が述べられるに違いない。
安倍首相の判断は決して辞職と安倍氏だけの問題としては論じられない。
文字通り、政治体制すべてにかかわっているからだ。

任命した国務大臣の金銭疑惑、不祥事による辞任の連鎖、年金の不正や不手際、参院選の惨敗など、確かにいろいろな問題が噴出したのは確かだ。
それは、たまたまこのタイミングで出てきたものもあるし、民主党が地道に調査をしてきたものも、内部摘発もあるだろう。ついていないとも見えるし、安倍内閣だからこそ、それらが堰を切ってあふれ出したともいえる。

責任はどこまで問われるのだろう。
そしてどうすれば責任はとれるのだろう。


責任を取って辞める、のは責任をとったことになる?

ふつうは何かをやって、その結果が当初の予定と大きく外れたときに、その責を取って辞める。
しかし、この辞めるというのが、そのまま作業が中断することになると、これは責任放棄であって、責任をとったことにならない。どころか、貴重な時間を失うことから、迷惑以外なんでもないということにもなる。

責任とるというのは、気持ちの問題であるとともに
周囲の納得の問題でもあるからだ。

立場によっては組織の納得と言い換えてもいいだろう。

だから自分の納得と周囲の責任の取り方が合致すれば、
『潔よく責任をとった』ということになるし、
合致しなけければそれは、否定、非難の的になる。
企業の社長をはじめとする組織の長や
政治の長である総理大臣などは
双方が合致するのは相当難しいだろうとは思う。
はじめから立場考え方を異にする側からみれば、
すべてがおかしいのだから。

責任をとるというのは自分の考え方でのけじめ。
その是非は、身の周りの納得感=直接その影響を受ける人たちの、納得感であり
その人の力の大きさに比例して及び影響の範囲にいる人たちの納得感だろう。
だから責任をとるという自分の決断はしなくてはいけないが、
その言葉は本人はあまり言うべきではないような気がする。
責任をとるのではなく、自分なりのけじめ。
それが責任をとったことになるかどうか、
それは時間と周囲が判断する様な気がする。