何のための話し合いか。

祭りの後、という言い方がある。
一瞬のはつらつとした、エネルギーの燃焼の後の空虚さとでもいうのだろうか?

ミーティングにもそういうケースがある。
いつもは伝達ゲームであるものが、
ちょっとしたことで意見が飛び交い、熱をおびた時間が続き、
予定時間を大きく超える。


しばらくして潮時を見た人間が、なんとかその場をまとめて一区切りをつけようとし、
まとまりのない終了になる。
半分は真面目に、半分はおどけて終わりを告げるのがよくあるケースだ。
そして、自分の席に戻るほんのわずかの間に
憑きものが落ちたように、虚しさを覚える。
ある人は、多少の満足感を覚え、
あるひとはまたしても中途半端にガス抜きをしたこと、されたことを呪う。


ミーティングは何のためにあるか。
そこには何らかの目的がある。
コンセンサスをとる。
解決策を決める。
情報交換をする。
終わった後に何かが残れば、それは意味があり、それが多いか少ないかだけが問題になる。
しかし何も残らない場合。
それが何度も繰り返される場合。
それは、無気力を生む。
となるとそうしたことの繰り返しは時間の無駄にとどまらず、
大いなるマイナスを生む。しかもそれは育ち蔓延する。



であるから、
それに不満を持つ人間は、(本来はその場にいた人間は)何かを残すべきである。
様々な意見の整理、再確認。その後の始末。
やることは色々ある。

意見を言っただけでは、それは一瞬のうちに深い闇の中に消え去るだけだ。
言った本人の自己満足が続く時間ほどには、誰の記憶にも残らない。
ただ、何かを言ったという事実が残るだけである。
なぜなら、また同じような瞬間がうまれ、
同じ意見を言い、その時には何人かが
『ああ、また同じことを繰り返している』ということに気付き始めるのだ。
三度目はそれに拍車がかかり。
さらに四度目には、半ばそれが当然のことのようにうつろに響き、
さすがに言うのも、聞くのも、もういい、たくさんだ、ということになる。



言いっぱなし、要求のしっぱなし。
とにかく、言葉を言い放って、後ろを振り向いていたら、
それは、言い放つことだけが目的とみなされても仕方がない。

で、だれかが、いつか、次につながるように一石を投げる。
それがいつで、誰かということは、
その組織の風土による。
そしてその個人のエネルギーにかかっている。