E教授との対話:個人の持つ価値観

エピソード・1

かつて鋳物工業で隆盛をほこった埼玉県川口市
吉永小百合が主演したキューポラのある町という映画で、一時代、若者が働く町として知名度はかなり上がったが、中心産業だった鋳物工業は時代の変遷の中で、海外に活路を求め、衰退の一途をたどっていた。

ある老舗の鋳物専門会社も事業を縮小せざるを得なくなった。
そこには腕のいい、仕事一途な專門工が数名、まだ仕事に勤しんでいた。
この仕事は鉄を溶かし、鋳型に流し込むという作業だから危険性も高い。
何より高熱の中での作業という3Kの代表的な職場である。もちろん当時のことだからクーラーなどはついていないし、扇風機さえ、なかっただろう。
天井から釣り下げた専用のバケツを傾けて、真っ赤にとけた鉄を鋳型に流しこむ作業だから、夏場などはヤカンから水を飲み、塩を舐め舐め、という作業になる。
その作業の熟練工といえば、注意深く、忍耐強く、体力を駆使して、数十年仕事に勤しんで来た職人たちである。
必要なことは目でわかる。経験にものを言わせた段取りのよさで、文字どおり阿吽の呼吸で仕事をしてきただけに、余計な口は利かない。
そして、仕事については鋳物以上に頑固だ。危険と失敗との背中合わせの作業だから、当然そうなる。いい加減に進めることなどできないし、やり直しもきかない。できたとしても仕事のしくじりとともに、なんらかの怪我や心の傷として残ってしまう。

そうした熟練工の働き場がなくなるのだ。
会社としても、今までの働きに感謝して、できるだけの補償をつけ、それぞれに新しい生き方の道筋を探してくれるよう、心を込めて説明した。この仕事に一途に取り組んできた熟練工が相手だけに、それは苦渋の選択であり、おそらく彼らの反発や失望の大きさも、経営側の想像以上のものだろうことは推察できた。熟練工を年数をかけて育てそれで成り立っている仕事の仲間は、家族同然なのだ。

こうした気持ちのこもった説得に、最初はなかなか首を縦に振らなかった職人たちも、いつしか家族や同僚にもなぐさめられ、なだめられ、説得されて、しぶしぶその条件を受けいれていった。もちろんそれは納得ではなく、諦めに近い境地であっただろう。

しかしその中に、一人だけ頑としてその提案を受け入れない職人がいた。
素直でおとなしい人だっただけに、それは意外でもあった。どんなに無理をたのんでも、嫌な顔一つせず黙々と確実に仕事をこなしてきた人で、経営者も静かだが頑なな抵抗をうけて、真面目さの下に潜んでいた芯の強さを改めて見せつけられたかのようだった。
それだけに、さらに時間をかけ丁寧に、ゆっくり説得を続けた。

しばらくして、会社の誠意がこもった話を聞くにつて、その職人も心は動かされていた。周囲の同僚もポツンポツンと職場を離れてきた。人気が少なくなった職場になり、事情も理解してくれたのは確かだった。それでも、はい、という答えはどうしても得られなかった。
本人も、一人だけになり、そのことを苦しんでいるようだった。わかるのだが、はいと言えない事情がどこかにある・・・。

なにが、この人の判断を思いとどまらせているのだろう。
経営者も古い同僚にも聞き、事情を探った。しかし、もう同期の仲間はとうに辞めていたし、独身でもあったので家族はいない。だが、故郷の青森には、母親が健在ということだけが分かったので、『申し訳ないが、会社としては、もう時間があまりない。ふるさとのお母さんとも話をしてもらえないだろうか』とお願いした。
その際に、会社としても今までの働きに感謝をしていることを述べ、今回の事業の縮小のお詫びと、精一杯の条件を認めた手紙を、母親に送ることも了解を取った。もしかしたら、母親の生活を心配しているのかもしれないと思ったからだ。

しばらくして、本人から条件を受け入れるという申し入れがあった。
ほぼ同時に、ふるさとの母親からの感謝の手紙も届いた。
そこには、不器用で真面目だけが取り柄の息子を、長い間お世話いただきありがとうございました、という内容とともに、こうあった。

「30数年前に、集団就職で東京に送り出す時に、辛いことがあっても絶対に逃げずに、歯を食いしばって頑張るんだよ。友達が辞めても、お前は頑張らなくっちゃいけないよ、と送り出したんです。それがこんなに長い間、頑張ってこられた。会社から頂いたお手紙には、本当に力を貸していただいて、助かったこと。感謝していること。そして会社の事情も丁寧に詳しく説明していただいた上に、十分な補償まで用意いただいた。ありがたいことです。息子には電話で、ここまで頑張ったのだし、会社も心を尽くしていただいている。おまえも、これからは、体に負担が少ない、もう少し楽な仕事を選んで、新しい生活を考えなさいと伝えました」。
話は続いた。
「そうしたら、息子が、じゃあもう辞めてもいいんだね』と、ひとこと言ったんです。
私との約束を、ちゃんと守ってくれていたんですね。それ聞いて、よく頑張ったね。もういいんだよ。これからはおまえが好きなように決めなさい、と伝えました」
そして最後に、息子をここまでお預かりいただいてありがとうございます、
と、また感謝の言葉で手紙は締めくくられていた。


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これが、今晩の話のはじまりだった。

「ずいぶん、重い話だね」ちょっと目をしばたかせてエイジ教授が、ため息交じりにつぶやいた。
「トラウマというのとも違って、これはその人の生き方のアンカーになっていたのが、30数年雨の母親の言葉だったんだね」
「そうなんだ。母親の言葉って、身近にいて何度も耳にしているわけだから、意識的にも無意識的にも残っているんだね。この人の場合は、辛いことがあると必ずこの言葉を思い出して耐えてきたんだろう。それが熟練工となっても、この人の生き方のアンカーになっていた・・・。」
ちょと感動していたぼくは、自分の子供のころのことを思い出していた。母親って偉大な影響力を持っている。海や太陽の冠詞が女性であるのももっともだな、と思った。


「最近、母親が小さな子供の世話や教育を放棄しているような出来事が多いけど、様変わりだ。どうしてこうなっちゃったか?事件というだけで片付けたり、聞き流しちゃいけないんだな」
教授がつぶやく、ちょと憂鬱そうだ。
「母親がもっとも子供に大きな影響を及ぼしていることは間違いない。その多くは、こどもの頃、おそらく中学くらい頃まではそうだと思う。そのあと、反抗期など自我の目覚めの時期を経て、また母親とは違った影響者が登場してくる。学校の先生やクラブなど先輩とかだ。これは社会人になってもそうだな。最初の上司や、先輩の影響はとても強いらしい。身近で経験も技術ももち、かつ権力も持っている。そう考えると、自分に影響を与えた人や、その人の言葉、行動っていうのも無視できないね。」教授らしく、客観的に“影響力の可能性”を推測していく。
「たしかに。それに母親の影響力が大きいのだから、母親の育った環境。両親、例えば祖父母や、その時代の空気といったものもかんが得る必要があるんじゃないか」こどもの頃のことを思い出していたぼくは、ベクトルを逆に走らせていた。いまという時代は、こどもの頃とは大きく変わっている。1980年代というバブル期は、モノを溢れさせ、初任給を倍以上に押し上げ、かつ90年代に入って、高々に慢心していた日本経済の鼻をへし折った。90年代半ばに生まれたこどもが、いまは社会人になっている計算だ。
「そうだな。こどもの頃の教育や価値観がその後のその人の生き方を方向づけるに重要な時期だとしたら、なおさら母親だけじゃなく、父親や、その両親や叔父叔母。もしかしたら、その更にもう一つ上の世代まで遡っていく必要があるかもしれない。90年代半ばにこどもを作った世代の親といえば、だいたい60年代から70年代にかけて生まれただろうし、その親となると戦争中か戦前あたりか」教授がまた時間軸を伸ばしていった。大正デモクラシー以降の昭和は、歴史上は大激動の時代と言われている。