決める打ち合わせ、決まらない打ち合わせ

どうも打ち合わせというのが好きになれない。
といっても必要性を感じていないというわけではなく、
むしろ自分から呼びかけて打ち合わせをすることは多い。
だから打ち合わせの声をかけられて、
受動的に参加する打ち合わせが好きになれないのかもしれない。

打ち合わせは何のためにやるのか?
例えば、何かのセミナーを実施するとする。
そこには必要性を感じての発案がある。
今こういう状態なので、こういう対象に、
こんな成果をあげられるセミナーを実施したい。
で、打ち合わせをしたい。

となると決めるべきは目的でも、対象でもない。

やるべきか、やらざるべきか。
あるいは、やった方がいいか、やらないほうがいいか、
を決めるために、
どうやるか?いつやるか?
誰がやるか?といった各論を検討するものになる。

それには、それらの要素を含む、なんらかのたたき台、仮というよりは
趣旨のサマリーが必要だ。
僕はこれが意思だと思う。

ところが現実的には、なかなかそこまで打ち合わせが届かない。
やるのかやらないのか。
目的はこれでいいのか、対象はこの人たちでいいのか?
こういう基本のところで、時間を費やすことが多いのだ。

やるかどうか?の意思、必然性が強ければ強いほど、
あるいはそれを参加するメンバーが強く共有しているほど、
それは問題にならない。決まっているからだ。

それは発案者の意思であり、イメージだ。
それがなければ、そもそも話し合い始まらない。
それはブレストに近い。だから結論が出なくてもいい。
そして次回まで考えてみようということになる。
そこ中途半端なスタートになるから、無駄な時間や思考を思い巡らすことになる。
直感的にでも、実証的にでも必要ならまずやることを決める。
その上で、趣旨を確認し、案を作る。
その段階ではやろうという思いの強いもの、多くは発案者が
たたき台をつくるのが速い。
そしてかれがブレストを主催する。

話し合うべきは、どうやるか、
だれがやるか、いつやるか、になる。
であれば話し合いのテーが決まっているので、
そのたたき台、具体的な案が用意されているかどうかだ。
その企画案がないまま、打ち合わせに入ると、
話し合うべきテーマが存在しないので、話し合いそのものも、
見えなくなったり食い違ってきたりする。

同じことを何度も繰り返すうちあわせは、
目的が決まっていないために起こるのかもしれない。

そしてそれを確定するのは、まさしく企画案であり構成表である。
これを形にするのは作業であり、企画そのものである。
それがある程度明確になければ、それは進まない。
しかしこれが時間がかかる。
調べる、
ストリーづける。
表現する。
形にする。
そのプロセスで、当然いろいろな問題や変更が出てくる。
その都度、全てに打ち合わせをしていたら、時間が足りないし、実行に追いつかない。
となると、最初に決めた目的と期待すべき成果に大菊食い違わなければ
よしとしなければならない。それを判断するのが実行者だ。
そしてこれは、目的に反する、マイナスになる実行の妨げになる、といった恐れがある灰には、個別でもいいからヒアリングする。
そして形が整った時に最終チェックをする。
最終といっても一回という意味ではない、完成させるための最後の作業ということだ。

それでも完璧にはならない。
なるはずもないのだから致命的なものを消せればそれでいいのだ。

あとは実施してみて、参加者の反応を聞き、次回修正すればいい。
そうやって繰り返してこそ、熟練していくのだと思う。