ひとはなんのために働くのか あるいは 人はなぜ働くのか?

ひとはなんのために働くのか
あるいは
人はなぜ働くのか?

この問いは目的及びえるものが明確にあるか、それとも本能的なものをどの程度含むのかといった。含みにおいて実は大きく違うのではニアkと思った。
ある本では、働くのは食べていくため、というの絶対的な正解を提示されることで、あるいは自分で持ち出すことでそれ以上の思考を止めてしまうのをシニシズムと呼んだ。
 生活していくため、食べていくため、あるいは子どもの教育費確保のため、家のローンのため、というのは先ほどの前者の問いの答えとしては明快で。絶対的でも、他の答えを拒否するものでもない。
 しかし、その答えでも、その続きがあるはずだ。食べるだけでなく、できるだけ、家庭団欒を楽しむ余裕がほしい。あるいは好きな音楽を聞いたり、友達と旅行に行ったりというその次の希望があるはずだ。ただ単に食べるといっても、美味しいものや珍しいもの、いつもの店ではなくたまには流行りの店とか、インテリアのいい店とかそうした自分の趣味や欲求は滲み出てくる。
 また仮に、1日を過ごせるだけの栄養があれば、味は問わない。あるいは満腹感が得られればそれでいいという考えもあるし、人もいるだろう。
しかし、そこには何か別のものがある。食べるだけでなく好きなことをやるために、好きな状態でいるために。それにしても生きていくには食べなければならない。だから食べるためにということでは最低限の要素であるのだが、そのために働くというのは答えのほんの一部分、あるいは最低限の答えでしかない。答えにすらならない、というのが率直な感想だ。
 ある程度の資産があり、食うのに困らない状態にある人でも、基本は働くことが多い。そして趣味や人付き合いや、車や別荘などを買痛くなり、そこで消費する。
 ここまでくると、なんのためにではなく、なぜ働くのか、という問いの方が適切な問いのような気がする。
 そして、働くのは金銭的なものに限らず、心の中の好奇心や欲求や想像力や、その他諸々の何かを産むために、言い換えれば働くことにより人間が人間らしく生き抜くための再生産をするために働くという方が適切なような気がする。